概要
2014年6月12日、イスラエル西岸地区へブロンで3人のイスラエル人青年が誘拐された。警察は”もちろん”パレスチナ人のイスラム同胞団ハマスの仕業だとしてパレスチナに対する弾圧を強化。その2週間後、今度は3人のパレスチナ人が焼き殺されるという事件が発生した。この二つの事件を契機に暴力的な衝突が各地で勃発。イスラエルの自称首都であり、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖地であるエルサレムでは、アラブ人による旧市街への入場が規制されるなど、現地では緊張感が高まっている。第3次インティファーダ勃発もあるのか?第1弾ではイスラエル人とパレスチナ人が住む北西部の町アッコに訪れ、パレスチナ人に話を聞いた。
インティファーダとは?
アラビア語で「振り落とす」の意を持ち「放棄」「反乱」を意味する言葉として使われる。イスラエルにおいては「イスラエルによるパレスチナ軍事占領に対する民衆蜂起」を意味する。
第1次インティファーダ(1987-1993年)
12月6日、パレスチナ地区で買い物をしていたイスラエル人が刺殺され、その3日後にガザ地区でイスラエル人のトラックとパレスチナ人のバンが衝突事故を起こし、パレスチナ人が4人の死亡したことをきっかけにジャバリアで暴動が発生。その暴動の最中、空き瓶を投げていた17歳の少年がイスラエル兵士に殺されパレスチナ人による報復行動が開始された。1993年8月のオスロ合意およびパレスチナ自治政府の設立に伴って沈静化。
第2次インティファーダ(2000-2003年)
2000年9月28日、当時のイスラエルのシャロン・リクード外相(後に首相)が1,000人の武装した側近と共にエルサレムの旧市街にあるアル・アクサモスクに入場したことで、それを挑発的に感じたパレスチナ人が護警に当たっていた軍隊と衝突。その後暴動が拡大し、パレスチナ人による自爆テロやイスラエル軍による空爆などが相次いだ。死者数は、2013年11月末までにイスラエル側が1,238人(同国政府調べ)、2013年12月末までにパレスチナ側が7,537人(人権団体調べ)とそれぞれ発表している。パレスチナ自治政府のアッバス議長はこれを「われわれが犯した最大の間違いの一つ」とみなしている。暴力ではないやり方でより高度な自治を目指す方向にシフトしたという。
(VICE Japanより引用)